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  • 日文孤本 生還者の証言―満洲天田郷建設史 上垣松之助著)両丹日日新聞社1版1印32开 269页 孤本绝版唯一稀少奇缺珍贵珍藏满洲开拓团研究文献资料史料调查农业开垦方正县地方志侵华罪证之五图表照片五十
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  • 作者: 
  • 出版社:   JAPAN 両丹日日新聞社1版1印 大32开 269页 孤本绝版唯一稀少奇缺珍贵珍藏满洲开拓团
  • 出版时间: 
  • 版次:   1
  • 印刷时间:   1983
  • 印数:   3千册
  • 装帧:   精装
  • 页数:   269页
  • 字数:   358千字
  • 作者: 
  • 出版社:  JAPAN 両丹日日新聞社1版1印 大32开 269页 孤本绝版唯一稀少奇缺珍贵珍藏满洲开拓团
  • 出版时间: 
  • 版次:  1
  • 印刷时间:  1983
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    外文原版 > 日文书 > 历史
    品相描述:九五品
    孤本 生還者の証言―満洲天田郷建設史 上垣松之助著)両丹日日新聞社1版1印 大32开 269页 孤本绝版唯一稀少奇缺珍贵珍藏满洲开拓团研究文献资料史料调查农业开垦方正县地方志侵华罪证之五图表照片五十太平洋戦争の終戦直前、旧満州(中国東北部)で起きた旧ソ連軍の日本人虐殺事件の生存者らが証言集をまとめた。「私たちは国に見捨て られた棄民だった。せめて満州に散った人々の『紙の墓標』となれば 今回は、終戦前日、旧満州で犠牲になったとされる多くの日本人の命です。 その犠牲者 を追悼する慰霊式 ... それが、戦後69年のことし、生存者や遺族などがある思いを 乗り越えて一冊の「証言集」を出版しました。引用文献
    『生還者の証言-満洲天田郷建設史』()
    『裂かれた大地』(京都満洲開拓民)
    『凍土の碑-痛恨の国策満州移民』
    『青少年の移民-満蒙開拓青少年義勇軍』
    『移民たちの「満州」満蒙開拓団虚と実』 この
    商品描述:
    満洲天田郷・第二天田郷

    満州開拓団
    -満洲天田郷・第二天田郷-

    福知山城天守閣がある一角に「拓魂」の碑がある。案内板や碑文には次のようにある。

    拓魂碑(福知山城)

    満州開拓顕彰碑について
    この顕彰碑は、昭和十年代の国策でありました満洲国開拓政策に呼応して福天地方より参加した開拓農民達が中国大陸旧満洲に新しい大地に、新しい村を創りつつあったことを後世に伝えようと願って建立したものです。昭和十五年に策定され、官民一体で推進された文郷計画の「満洲天田郷建設」は郷土史上始めての画期的な大陸集団移住の大事業でありました。
    私達はこの計画に参加し、満洲国三江省依蘭県(現在中華人民共和国黒龍江省依蘭県)において、明るく、希望に溢れた農村を着々と建設しつつありました。
    ところが昭和二十年八月ソ連の参戦によりこの地も戦場となり、その結果三一一名の開拓団員並びに家族のうち死亡者一四五名、残留者一六名、行方不明二四名、の犠牲者を出し生還者僅か一二六名という悲劇的な終りをつげました。しかしその当時の満洲国建設の大陸政策の下で、狭隘な郷土農村の開放を希い、北満の広野に新らしい理想農村を建設しようとした純粋な愛郷心と、敢然と大陸の土に挑んだ逞しい開拓精神に偽りはなくこの事蹟は郷土史の一頁として銘記するべきであると信じ、この碑を建立したものであります。なお「拓魂」の題字は郷土出身の元総理大臣芦田均先生の揮毫であり、碑文は成美学苑創立者西垣完先生の撰文によるものであります。昭和六十二年四月三日 天田拓親会

    満洲開拓顕彰碑文
    人類の尊き根本義は真善美に在り、世の推移と時代の変遷に伴ひ人間の思惟と行為は様々の変容を呈し、又各国各人は資質と環境等しからず個有の特性を把持す、而も世代の表象を貫き根本義より発現する力強き行動こそ人類の進歩福祉に必ず貢献し不滅の垂範となる、共栄を旨とし各特性の真義を達悟せる生涯は崇高にしてその業蹟は久遠の光に映へ各自その所を得て究極の平和を樹立すべし、我国に於ては夙にその意義を体し、当時の隣邦満洲国と密接不可分の親交を結び民族の協和と広褒たる満洲開拓の雄大なる入植計画を作る。
    拓務省は昭和七年第一次農業移民として東北十一県より武装移民を選抜し三江省佳木斯に上陸せしめ弥栄村を建設せるを濫觴とし、翌年千振郷を加へ爾来政府の施策と相俟って次々と鍬の勇士は北満に永遠の郷土を創設せんとす。
    昭和十三年近畿二府五県は吉林省黒石屯に入植する事となり、京都府又京都郷の建設を図る、天田郡よりは二十数名の拓士を送り、経済更生の見地より郡農会中心となりて天田郷建設計画を立て入植地の調査を遂げ三江省長嶺子の地を相し、和田昌純氏を団長として昭和十五年先遣隊を出し、翌年より遂次家族を挙げて開拓に当る。開拓の事たるや非常なる決意と容易ならざる労苦と言語に絶する忍耐を要す。
    これら拓士は熱烈なる開拓精神に溢れ、その貢献を認識し、その理想を揚げ希望にもへ忠誠と正義、博愛と奉仕の信念を以って難難を克服し、美はしくも身を捧げて奮励事に処す。
    母郷よりも奉仕隊を送りて激励し、相俟ちて稔りの田畑青々として成果を上げ将に理想郷の具現も程近しと思はれしに、昭和十六年世界第二次大戦の勃発に伴ひ兵籍にある者は徴集せらる、多少の暗雲低迷すると雖も残留拓士と留守家族は克く覚悟の臍を固め苦難を超へて経営の継続に心血を灑げるに、昭和二十年八月第二次大戦の終局に際し、無惨にも突如その地は侵略兵の襲撃により席捲さる。
    田圃は馬蹄に蹂躙且つ家屋は侵害、身は傷き或ひは殪れ救国に帰還せる者僅か数十名に過ぎざるの非運に立ち到る。一切の理想と営みは一瞬にして虚となる。
    吁々爾来敗戦の逆境にある我国の再興は意の如くならず、倫理の衰頽に恐怖をさへ感ぜられしに、今日独立国家として漸く立直り、人亦恒心に緒かんとす。
    顧みて当時を追懐し人類の根本義と、我国の特性を再認し偉業を達成せんとせし先覚を想ひ、彼地の遺業の不滅をしのび、義心自ら止み難く茲に有志相謀り、斯かる率先開拓の壮図と、之に挺身せられし拓士家族の芳名を千歳に伝へてその雄渾にして秀美なる魂を表彰し後人の鑑とせんことを期せらる。
    老生ために顕彰の誠を託す。
     昭和三十年七月一日  西垣 完

    舞鶴からもいくらかは開拓団員や義勇軍隊員を送り出し、帰らざる人もあったのだから、こうした碑が一つくらいはあってもいいし、記念館にも何かあってもいいが何もないようである。記録もあってもいいがそれもない、舞鶴から開拓団の過去をたどるのはむつかしい。さいわいというか福知山には、いくらかは残され
    最後の入植者1名を迎えた、村民同士の現地婚が始めて生まれた。開拓団の総戸数44戸、141名となった。
    1戸あたり水田1.7ヘクタール、畑2ヘクタール、馬か牛が1戸当たり1頭くらいしかいなく、これが精一杯であった。全体で水田54ヘクタール、畑62ヘクタール、総合計116ヘクタール。この年は豊作だった。4年目にしての初めての大豊作、大成功だった。団員たちはそれぞれ自立し個人経営への道を歩み始めた。

    満州第二天田郷の建設
    戦争勃発とともに、軍事面が忙しくなり、満州開拓は忘れられようとするが、天田郡は拓務省から「特別指導郡」の指定を受けた(昭17)。
    18年には「天田東亜開拓報国会」が結成され、第一の成功を受けて、第二天田郷建設に向けて動き始めた。
    第二天田郷の入植地は第一天田郷に隣接する依蘭県西?(手偏に玄)村西三家子屯と決定。地区内には現地人の集落があったが、移転(強制撤去)させた。その先遣隊10名が昭和19年3月第一天田郷に到着し、現地訓練に入った。さらに第二陣、第三陣と送られて、この年のうち第二天田郷は団員24名、家族32名そのた2名、計57名となった。畜力・労力とも不足で水田0.6ヘクタール、畑1.6ヘクタールを播種。地区の通称「砂山」にはとりあえず20戸の部落建設にとりかかった。団員の家族招致でさらに増えた。
    前途洋々かに見えた満州開拓団であったが、洋々であればあるほど実は危機が迫ってくる。日本では開拓団と呼んでいるが、それは日本ではそう大本営語で呼んでいるというだけのことで、不当にも土地を取られた側では何と呼んでいただろう、彼らの呼び方こそが正当な呼び方であって、それならば洋々たる未来はない運命である。

    昭和20年4月末でも第二天田郷入植者56名が出発している、さすがに危険を肌で感じるほどにヤバイ状況になっていたか、父の後を追って渡満しようとする娘たちあてに「満州へ来るな」の手紙を送った団員(第二天田郷)もあったという。それでもやってきた娘達を見て「来たんか!」と父は声を張り上げたという。軍飛行場(長発屯飛行場)が8キロばかり西にあり、「特定重要機密情報」が一部もれていたのではとも言われる。聞けばあまりに何も知らされずつんぼ桟敷に置かれている身を気の毒に思いソっと知らせてくれたのかもわからない。上はそうした気がまったくなく自分さえよければいいの連中だが、下級兵士は同じ農民の出身者だから、情報を流してくれたかも…
    5月になると青壮年団員の応召が相次ぎ、6月には関東軍は秘密裏に撤退し、その穴埋めとして開拓団員は「根こそぎ動員」となった。小学校の校長先生にも赤紙状が届いた。「校長までとられるようなら、もうなにもかもが終わりだ」と言ったとか。団員達がワレに帰り、フト気が付いたときには、なにもかもが終わっていた。これが「大東亜新秩序」の本当の中味であった。

    死の逃避行
    ソ連の進攻は8月9日だが、そのことは開拓団には知らされたのかどうかよくわからないが、8月11日、日本刀を腰にさし、5日分の食糧携帯した15名が出征していった、機械化機動部隊相手にカタナ!関ヶ原の合戦ですらテッポウだろう。
    関東軍は南方へあるいは本土へ引き抜かれ、あるいは朝鮮国境に撤退した、この時に武器類も一緒に持って行ったので、満洲にはもうまともな武器がない、この期の新京での招集令状には、各自、武器となる出刃包丁類とビール瓶2本を携行すべし、と書かれていた、出刃包丁は棒先にくくりつけてヤリとし、ビール瓶は火炎瓶とするのだそうである。笑えてくると言うのか泣けてくると言うのか、自称指導民族ニッポンスンバラシイですね国がワラにすがる、もう勝ち目はまったくない、悪あがきせずに即時無条件降伏すべきであろうがそれすらできない。

    第一開拓団は、大人の男子が8人とあとは女子供ばかりの107名となった。第二開拓団も120名ばかりが残された。
    残された者は中心を失い、何をすればよいかわからなかった。
    囲壁から出ないように、隣との壁に穴を開けて行き来できるようにして、枕元には鉈や鎌を置いて寝た。
    8月13日。避難しろと、知らせが来る、飛行場からの知らせという、すぐに中止命令、指揮命令系統が違うが、危険を冒して兵隊が知らせてくれたと言う。飛行場を自ら爆破して兵隊達は引き揚げた。まだこのころは虎頭要塞は一応生きてはいた、守備隊に10倍する2個師団のソ連軍に包囲まれていてもう時間の問題と見たものか。兵隊がいなくなると満人達の態度が一挙に変わった。チャンス到来と解放派もあったろうが、窃盗派がある、「五族協和」というが、配給チケットなどは彼らにはない、土地を奪う者が彼らに何物かでも与えるわけがないが、彼れらには何もなかった、特に着物が欲しかったようである。
    どこからくるものか、避難命令は3度来て3度とも中止された。
    依蘭県副県長より電話で「すぐ依蘭へ避難すること、服装は防寒用、食糧は持てるだけ持って」というものであった。
    第二天田郷は第一天田と合流すべく移動を始めるが途中で引き返して依蘭へ向かえの命令があった。
    8月15日、第一は農耕馬を銃殺して、5、6里ある依蘭へ徒歩で避難を始める。真夜中に依蘭に到着した。依蘭は避難民と兵隊でごった返していた。行動を共にする予定だった第二は、待ちくた
    元開拓団の民間人の慰霊です、「皆様の犠牲の土台に日本は復興し今は平和と繁栄を築いてまいりました。生き残った者として心からご冥福の祈りを捧げます」と、黙祷を捧げるそうである。バンザイすると帰ってくれと言われるとか。「この一行は民間人犠牲者の慰霊団で、決して関東軍兵士のためではない」と当局が説明してくれて、周辺の市民たちも認めてくれるという。「残留孤児」や韓国の慰安婦問題などやこうした問題は多くが残されたままで、まだまだ戦争は終わってはいない。
    シベリア抑留は関東軍兵士が多い、開拓団の「根こそぎ動員」でにわか仕立ての兵士にならざるを得なかった気の毒兵が多いが、しかし兵隊は恨まれた第一の者であったし、今も強く恨まれていると知っておくべきだろう、そうした気の毒兵とは知られてはいないし、応召の下っ端兵は皆そうした気の毒兵であって区別はできない、青少年義勇軍ですら、関東軍の意見で満州では「青少年義勇隊」と呼んで軍とは呼んではいない。軍では現地で受け入れられまい、関東軍ですらそれくらいのことは知っていた。

    日本人開拓民も民間人を保護せずに自分だけで橋まで壊して逃げた関東軍をひどく恨んでいる。
    世界に向けて発信したいと言うなら当館は兵隊中心から民間人中心の展示に切り替えていくべきかと思う。関東軍が作った館であってももう少しは工夫があろう。

    「日本人がこれまで満人をいじめたから、満人が私たちを殺すというなら、やむを得ないが、いままで関係のないソ連軍に殺されては浮かばれない」と、だいたいはこう考えていたようである、だから満人を悪くは言わないが、それでウラミをロシアにぶつける。当館もそうだが、ロシアだって2000万人とかを殺されていた、誰に、ワレラの盟友によってでなかったか。直接の下手人ではないが、黒幕みたいなもの間接的にはそれに関わったでないか。満州国は他国の領土に勝手にデッチ上げた傀儡国家である、どの国であってもいずれは黙っているはずもなかろう。

    (参考)
    『図説福知山・綾部の歴史』
    「鍬の戦士」たちの夢と悲劇 ●満州天田郷の建設

     昭和七年(一九三二)、主に軍需資源の供給地とするため、中国東北部に日本の傀儡国家である満州国が建国され、一二年度から関東軍や拓務省によって日本の農家を大量に同国へ移民させる計画が進められた。その主目的は、日本人人口の増加による同国の治安維持および対ソ連戦への備えであったが、同時に当時、経済不況で疲弊していた農村を救済する更生政策の一環でもあった。こうした移民の総数は、敗戦時には二七万人にのぼったという。
     昭和一三年、天田郡細見村が、経済更生運動の一環として満州国に模範分村を作る計画を立てたことから、天田郡・福知山市から一六名が第七・八次満州農業移民本隊に参加し、吉林省黒石邨・青溝子開拓団先遣隊として渡満した。これを機会に移民への気運が盛り上がった天田郡では昭和一五年一月、天田郡経済更生委員会会長大槻高蔵を中心に各市町村の首長や農会長・技術員による合同会議が開催され、皇紀二六〇〇年記念事業として満州天田郷建設が決定された。これは、年内に天田郡・福知山市から合わせて五〇戸の開拓団を移住させるもので、送出本部を天田郡農会におき、団長には福知山市農会主任和田昌純が就任した。和田は内原満蒙開拓訓練所(茨城県)で研修を終え、満州の現地視察を行ない、入植地を三江省依蘭県道台橋村長嶺子に決めた。
     五月、さっそく先遣隊八名は現地に就き、農具・種子・牛馬の購入や共同宿舎などの建設、農作業にとりかかり、明くる年の本隊受け入れに備えた。しかし、なかなか思うように後続部隊の送り出しが進まず、そのため労働力・資金不足のほか、冷害でも苦労した。それでも一八年には天田郷の戸数は四〇戸、人員は一三三名になり、共同経営から個人経営に移行し、四年目にして大豊作となって、開拓団の基礎が固まった。
     一八年七月には、天田東亜開拓報国会が結成され、新たな構想と機構で隣接する依蘭県吟玄村西三家子邨に第二天田郷の建設が計画された。このときの移民奨励組織は強力で、第一天田郷の成功もあったことから、第二天田郷の入植者は一九年一〇月で二四世帯、五八名になった。
     ところが翌二〇年に、関東軍の南方戦線への移動に伴い現地応召がなされ、団員の大部分が入隊したので、開拓団は労働力・防衛力の担い手の大半を失い、危機に陥った。八月九日、ソ連軍は突如対日宣戦を布告し、同時に国境を越えて満州に進撃を開始したので、婦人・子供・老人たちなど残された開拓団民の悲劇的な逃避行が始まった。第一・第二の天田郷三一一人の内、帰国できたのは団員八六人中五二人、家族二二五人中七四人で、残留者一六人、行方不明者一八人であった。
     こうした悲惨な結果と残された問題については、天田郷建設に指導的役割を果たした上垣松之助による『生還者の証言-満州天田郷建設史-』に克明に記されている。忘れてはならない郷土史の一頁である。(塩見行雄)

    『夜久野町史』
    満蒙開拓団 
    昭和四年(一九二九)六月に「拓務省」が設置され、満州の開発と移民が計画されるようになった。当初は現地中国人との軋轢も大きく、騒乱の発生もあって計画は停滞していた。昭和十一年八月、拓務省は二〇ヵ年で一○○万戸の開拓移民送出計画を立て、閤議決定され、国策となって翌年度から実施された。結局敗戦までに三三万人が移民したが、これら移民団の多くはソ連との国境近くに配置され、治安維持の役割も負わされる事になり、敗戦直後、帰国に際して大きな障害となった。 
    昭和十二年一月、拓務省により京都府庁に近畿二府五県の担当者が集められ、満州移民の奨励策が協議されている。これにより、第七次先遣隊(全国で三〇人)と第六次本隊(全国で六〇人)の募集・宣伝が進められることになり、一月二十九日の京都市公会堂ほか府下八ヵ所で講演会などが計画された、ここでは.経済更生村を中心に、土地問題の解決と窮乏する農村経済の建て直しの解決策として、満州移民が位置づけられていた。これを受けて、天田郡などでは二月十日を「移民デー」として、紀元節祝賀会に合わせて講演会などが計画された。 
    昭和十三年、細見村福知山市三和町)村長の長沢延之助ば経済更生運動の一環として満州国への分村を計画し、九月に農村更生協会主催の満州移民地視察団に参加し現地を視察した。この報告を受けて細見村の分村計画が動き出すとともに、天田郡産業組合青年連盟の有志らが天田郡の分郷計画を立て「満州移民協議会」を結成し、実行に向けて参加者を募った。当時の、農村の窮乏する経済と農地不足による逼塞感、行き場のない閉塞感を打破する策として、青年らの共感を得ることになった。 
    昭和十四年二月には、国の進める満蒙開拓団として細見村一〇人、福知山市二人、下夜久野村一人、天田産業組合青年連盟三人の総勢一六人が、兵庫県で一ヵ月の訓練の後、各地からの人々とともに満州へと渡り、黒石屯(第七次黒石屯近畿開拓団本隊}と青溝子(第八次青溝子開拓団先遣隊)の開拓にあたった。 

    満蒙開拓青少年義勇軍 
    戦局の拡大にともない兵役が優先され、移民に応募する者は必然的に減少することとなった。昭和十三年には五万人の満蒙開拓青少年義勇軍派遣の計画が進められ、二月に第 期七〇〇人が京都府へ割り当てられて先遣隊五〇人を二月十五日までに募集することとされた。「満州の一画に楽土を開拓、ここに雄々しくも京都府を建設しよう」と募集され、一〇人が五月から訓練を受け、六月に渡満した。満蒙開拓青少年義勇軍は、一五歳から一九歳までの青少年を募集し、茨城県中津村内原に設けられた内地訓練所で訓練を受けた後、満州での開拓に携わることになる。京都府でも、昭和十三年から毎年、募集・編成されているが、昭和十九年には夜久野から指導者として二人が参加している。応募者は全国で総数約八万六〇〇〇人を数え、昭和十九年の終わり頃からは現地で召集された、そのうち終戦後の混乱のなかで死亡した者は二万四〇〇〇人であった。京都府内からは最終的に第五期までが動員されているが、その犠牲は非常に大きなものとなった。 

    満州天田郷建設 
    昭和十五年一月二十六日、天田郡・福知山市の市町村長、農会長らの合同会議において、皇紀二千六百年記念事業として満州天田郷建設事業が決議され、天田郡・福知山市の独自の事業として実施されていくことになる。おりから、拓務省は新たに満州特設農場を計画した。勤労奉仕隊として全国で三二〇〇人の中堅農士を募集し、前後二班に分け、各三ヵ月ずつ農作業に従事するというもので、満州の状況を周知し、本格的な入植のきっかけとするものであった。京都府の割り当て五〇人に対して、天田郡・福知山市の他からも多数の応募があったが、天田郡・福知山市の四二人(うち上夜久野村二人・下夜久野村二人、中夜久野村一人)は全員が参加することとなった。満州天田郷建設計画は、昭和十五年中に五〇戸の移住を計画し、二月二十一日から三月十五日まで募集され、先遣隊に応募したのは六人(うち上夜久野村二人、中夜久野村一人)であった。 
    予定よりも人数が少なかったため、昭和十四年三月に渡満していた天田産業組合青年連盟の一人に参加を要請し、彼は弟をともなって近畿開拓団を退団し、満州天田郷建設に参加することとなった。これに福知山市農業技師であった和田昌純が隊長として加わり、先遣隊は九人となった。こうして、四月三十日、一行は福知山市一宮神社で祈願祭を行い、郷里を後にした。 
    満州天田郷は、満州国三江省(黒竜江省)依蘭県道台橋村洋梨片屯に近い長嶺子にあって、肥沃な土地で開拓の成功が期待されるものであった。 
    この時期の状況が、昭和十五年七月・八月刊行の『京都府農会報』五七六・五七七号に報告されている。 
    「天田郷開拓組合現地報告Lと題されたこの報告は、現地の「満人」との交流や、肥沃で広大な農地を強調する内容となっている。 
    先遣隊は五月十二日に現地に入り、宿舎の建設や耕作・播種など、稲作を初めとする農作業に追われることになった。現地で平野指導員が合流したものの、広大な土地はあっても人手不足が根本的な問題であった。順調な進捗と今後の可能性を郷土へ知らせ、新たな人植者の増援を要請した。少人数により多忙を極めたが、郷土で開拓に参加する人々を積極的に募り、また家族を招致した。九月に二人が妻をともなって戻り、順次新たな入植者もあったが、予定された人数には遠かった。 
    昭和十六年春頃の状況は、団員二九人(戸)と、その六家族の計四三人であった。同十七年には、団員四〇人(戸)、二一家族の計一〇五人。十八年には、団員四〇人(戸)、二八家族の計一三三人と、開拓者の間での婚姻もあって新しい村がようやく形となっていった。この内、夜久野からは一八人が団員として、家族も含めると四八人が満州天田郷建設に参加したのであった。 
    昭和十八年春頃には、第二天田郷の構想が本格的に検討されたようである。七月には天田郡東亜開拓報国会が結成され、十八年から五〇戸を送り、三ヵ年で二〇〇戸を送り込む計画が立てられ、天田郡翼賛壮年団などの関係団体も巻き込み、啓蒙活動や募集活動が行われた。 
    昭和十八年の暮れには第二天田郷も第一天田郷に近接した場所に決まり、いよいよ入植者募集が本格化するが、長引く戦争に多くの若者が戦地に送られ、農村も労力不足となり、新たな入植者の確保は困難な状況であった。 
    加佐郡や各村の翼賛壮年団の中心人物が自ら参加することになり、下夜久野村二人、中夜久野村一人を含む一〇人が第二天田郷先遣隊として、昭和十九年三月満州に向けて出発した。第一天田郷の成功もあってか、その後の募集に比較的順調に進められ、五月以降、下夜久野村の二人を含む入植者が続々と渡満し、十月には団員二四人(戸)、一〇家族、五八人となった。 
    第二天田郷では、三岳村の分村計画も含まれており、昭和二十年には三岳村の建設も行われ、五月には三岳村を中心に一六人戸五七人の新たな入植者が加わった。 
    孤本 生還者の証言―満洲天田郷建設史 上垣松之助著)両丹日日新聞社1版1印 大32开 269页 孤本绝版唯一稀少奇缺珍贵珍藏满洲开拓团研究文献资料史料调查农业开垦方正县地方志侵华罪证之五图表照片五十
    しかし、戦局の悪化は、建設と経営が進められてきた満州天田郷の前途に暗い影を落とし始めた。ソ連との国境に近く、いわば最前線にあって、当時の情報統制の中、なにも知らされず、なんの備えもできなかったのである。さらに、昭和二十年五月に応召がはじまり、次々と壮青年が出征することになったため、新たな建設事業は困難となり、残された女性で農事を行うことが精一杯であった。八月九日、突如、ソ連は対日宣戦布告とともに、国境を超えて満州国へ進撃を開始した。戦車を中心に機械化された圧倒的な火力の前には、なすすべもなかった。さらに.関東軍は開拓民を放置して、すでに移動を開始していたのであった。開拓民は、おとりとして取り残されて八月十一日には学校長までもが出征させられ、村に残された者は大人男子八人、女性と子どもが一〇七人という状況であった。八月十五日には、村を捨てて全員で避難し帰国の途を探すことになる。

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